養 老 健 康 百 話
第十話 高齢者の不眠
養老健康百話-10

眠ろうとすればするほど眠れない

 歳をとると睡眠障害に悩む人が増える。旧科学技術庁の調査では八十才以上の男性10%、女性22%が睡眠薬を使っている(成人平均5%弱)。加齢に伴い、寝付きが悪くなる、夜中にトイレや皮膚の痒みで目覚める、早朝に目が覚めてしまうなど快眠を妨げる要素が増えてくる。睡眠障害はうつ病、喘息、前立腺肥大による頻尿などの疾患でも起こるが、これらは原因となる病気を治療しなければならない。

 年配者には、8時間睡眠が絶対に必要だとか、夜更かしは禁物だとかいう思い込みが多い。そこで、眠くもないのに、なるべく早く床に就いて眠ろうと努力する。不思議なもので、眠らなければならぬと眠りへの努力を始めた途端に眠気はどこかへ霧散してしまう。そして、ベッドの上で輾転反側し、眠れないと悩むことになる。こうなると、眠らない害よりは、眠れないと悩むストレスの害の方が大きくなってしまう。

 今夜もまた眠れないのではないかという不安がますます入眠を妨げる。一晩や二晩は眠らなくても死にはしない。それに、特別な病気でもない限り、人間は必ず必要な睡眠をとらねばならぬように出来ている。現代人は過度に贅沢な睡眠の理想像を描き、それに少しでも合わないとイライラと欲求不満に陥り、自分で不眠症を作り出しているきらいもある。眠れなければ、これ幸いと開き直って、日頃読めなかった本を読むとか、音楽を聴くとかする心の余裕が欲しい。

 不眠に関して示唆に富む面白い実験がある。この新薬は特効薬だと医師が患者に告げ、ただの小麦粉を服用させると、かなりの数の患者に効く。入眠障害の患者に対し、「この薬は睡眠阻害剤です。どのくらいの時間効くか実験します」と告げ、小麦粉の偽薬を服用してもらう。そうすると、かなりの数の患者が短時間で眠ってしまう。眠れない理由が薬にあり、眠れないのが当然と眠る努力を放棄した途端に自然な眠りが訪れるのである。

寝酒は健康を害する

 医者に行けば、症状に合った睡眠薬をすぐに処方してくれる。最近の睡眠薬は副作用も少なく、連用の害も少ない。それでも人によっては翌朝まで薬効が残り、午前中はぼんやりして仕事にならぬこともある。特に、自動車を運転する人は危険だから運転は差し控えたほうがよい。また、体がふらついて、布団の縁につまずいて転び、骨折してしまったなどという話も聞く。睡眠薬の服用は慎重にしたほうがよい。

 睡眠薬より寝酒に頼る人もいるが、アルコールの害は睡眠薬より怖い。不眠症対策に寝酒を飲むのには大抵の医者が反対している。少量の酒なら過度の興奮や不安を静め、入眠剤として有効であるが、不眠不安から毎晩飲酒するようになると、酒量も段々増えてアルコールの害が健康を脅かすようになる。アルコールは麻酔薬として覚醒中枢を麻痺させるが、同時に睡眠中枢も麻痺させる。一見熟睡しているように見えても睡眠の質はよくない。どうしても寝付きが悪くて困る人は寝酒より、医師の処方する精神安定剤を服用するほうがよい。

朝の早起きと日光浴、夜の入浴と運動

 病気があるわけではないが、寝付きが悪く、眠りが浅い程度の普通の不眠には、朝の早起きが有効である。早起きといっても普段より一時間程度の早起きの継続で十分である。その分昼間に眠くなるが、昼寝は三十分以内に切り上げる。短時間の昼寝は健康によいが、長時間の昼寝は夜の睡眠を阻害する。

 睡眠にはメラトニンという睡眠ホルモンが必要であるが、このホルモンは昼間光を浴び、夜暗くしないと分泌しない。従って、快眠を得るためには昼間、特に有効な朝の日光を十分に浴び、夜は照明を落としておくことが大切となる。

 また、快眠のためには運動と寝る前の入浴も有効である。脳内温度の低下が眠りを誘う。脳内温度の低下の落差が急激であればあるほど眠くなる。入浴すると一旦体温が上がり、入浴後は汗が出て、体温が下がってゆく。また、ぬるめの湯は副交感神経の働きを強め、興奮を静め、リラックスするから睡眠に好都合である。入浴前、散歩、ストレッチなどの体温を上げるのに有効な運動を加えると、さらに心地よい眠気を迎えることができる。

 カフェインを含む珈琲、紅茶、濃い日本茶、ココアなどの飲料は覚醒作用があるので、安眠のためには夜寝る前に飲まないほうがよい。カフェインが体内から分解排泄されるには、個人差はあるが、普通、若い人で4時間、老齢者では6時間もかかる。不眠に悩む高齢者は午後四時以降には珈琲、紅茶の飲用は控えたほうがよい。

短い昼寝の習慣はアルツハイマー痴呆を予防

 広島大の研究によれば、健康で意欲的に活動している高齢者には午後二時頃三十分以内の短い昼寝の習慣を持つ人が多い。また、国立精神神経センターの研究によると、習慣的に毎日三十分以内の昼寝をとる人は、これ以上の昼寝をとる人や昼寝の習慣のない人に比べてアルツハイマー病にかかる危険性が三分の一である。どうやら、午後二時過ぎに三十分以内の短時間の昼寝をとる習慣は肉体と精神の老化を予防する効果があるらしい。

時差ボケ対策

 海外旅行をする人が多くなったが、悩みの種は時差ボケである。昼間眠いのに夜は眠れない、便秘、食欲不振などが主な症状である。対策は、できるだけ早く現地時間にその人の生物リズムの時刻を合わせることである。そのために、現地時間に合わせて、朝は早起きし、昼間はなるべく戸外で日光を浴び、食事時間には食事をとるのがよい。しかし、時差ボケ解消には少なくても1週間や2週間を要するので、短期間の旅行ではやっと現地時間に馴れたと思うと帰国になり、今度は帰国後の時差ボケに苦しめられる。

 時差ボケの中でも困るのは睡眠障害と便秘なので、旅行の前に医師に相談し、短時間作用型の導眠剤を処方してもらい持参するのが賢明である。アメリカなどでは睡眠ホルモンのメラトニンが市販されているので、目覚めが自然だとこれを利用する人も多いようだ。
堀 忠雄著「快適睡眠のすすめ」岩波新書より