養 老 健 康 百 話
第八話 呼吸法
養老健康百話-8

 呼吸で自律神経のバランスを整える

 食事や睡眠は二三日抜いたところで急には死なない。呼吸を止めれば数分で死ぬ。人間の成人は普通1分間に15回から20回の呼吸をしている。一日では三万回もの膨大な呼吸数となる。

 呼吸を支配しているのは自律神経である。怒ったり、不安になると、自律神経の中の交感神経が刺激され、呼吸は浅く早くなる。好きな音楽を聴いたり、くつろいでいると、副交感神経の働きが強くなり、呼吸はゆったりと深くなる。

 自律神経は血圧、心臓の拍動、胃腸の消化吸収の活動、ホルモンの分泌など生命の基本的な活動を支え、免疫力を担う白血球の生成をも支配している。色々な病気の原因はストレスに起因する自律神経の乱れ、これによる免疫力の低下にある。自律神経の働きを安定させ、免疫力を強化すればガン、脳卒中、心臓病などに罹らなくて済む。しかし、残念ながら意思の力では自律神経の働きは統御できない。ここで登場するのが呼吸法である。

 呼吸は自律神経と運動神経の二重支配を受ける。意思の力で早くしたり深くしたりすることが出来る。吐く息をゆったりと遅くすると、副交感神経の働きが優位となり、気分もゆったりし、血圧も心拍数も下がり、手足の血流量が増え、消化活動は活発になる。

禅の呼吸法に学ぶ

 呼吸を手がかりに自律神経の働きに影響を与える工夫が昔から座禅、ヨーガ、気功、武道などでは行われている。東燃の座禅会を指導されてこられた故辻雙明師は師匠の「結局、呼吸だ」という一語を追及し、「呼吸の工夫・日常生活の中の禅」(春秋社)という一書を遺された。

 禅では調身、調息、調心と三段階に心身を整えて行くが、調息が呼吸法である。本書によれば、調身により余計な筋肉の緊張をとったあと、まず鼻から息を下腹の方(丹田)に静かに吸い込み、全身から「蒸すがごとくに」静かにゆっくりと息を吐いてゆく。このとき、お臍から足の裏に抜けてゆくようなイメージで息を吐き、呼吸だけに精神を集中する。禅の修業を積めば、呼吸は段々深くなり、やがて呼吸だけで心身脱落の悟りの境地に達することもできる。

 座禅、ヨーガ、気功などの呼吸法に共通する点は次の通りである。その第一はゆったりゆっくりした静かな深い呼吸。第二は吸う息より吐く息を重視し、吐く息は吸う息の何倍もの時間をかけて細く長く吐くこと。第三は腹式呼吸にすることである。

 古代中国の荘子は「真人の息は踵を以てし、衆人の息は喉を以てする(悟った人はイメージで踵から息をし、凡人は喉で息をする)」と禅の呼吸法を紹介している。白隠禅師はこれを「夜船閑話」に引用し、優れた心身健康法として推奨している。

ストレスの緩和は深呼吸から

 このような静かでゆったりした呼吸を繰り返すと、心が穏やかになり、手足の血流が増え、指先が温かくなってくる。測定すると脳波には安静を示す@波が増え、血圧や心拍数も下がっている。免疫学の新潟大安保教授によれば、病気の根源はストレスなどによる自律神経の乱れと、それからくる免疫力の低下にある(詳細は養老健康百話-3参照)。静かにゆったりと腹式呼吸をするとストレスが緩和され、自律神経もバランスを取り戻し、免疫力が上がり、ガンを始めとする色々な病気を予防できる。

試してみよう呼吸健康法

 東邦大学医学部の有田教授は、丹田呼吸法が神経伝達物質セロトニンの量を増やし、うつ病、不眠、肥満、自律神経失調症の治癒に役立つことを臨床で検証中である(安心・四月号)。セロトニンは神経伝達物質の一種であるが、脳全体の調子を整える司令官の働きをする。うつ病で死んだ人の脳を調べるとセロトニンの顕著な欠乏が見られる。実験によれば、丹田呼吸を30分行った後のセレトニンの尿中濃度はあきらかに上昇している。どうやら丹田呼吸がセロトニン量を増やし、うつ症状や不眠を追い払うようである。

 有田教授は丹田呼吸が難しい人には、同じくセロトニンを増やす効果のあるリズム運動、例えばウォーキングなどしながら「吐いて、吐いて、吐いて、吸う」というリズムのある呼吸法を行うことを推奨している。

 本格的な丹田呼吸法の習得には修練を要するが、意識して吐く息をゆったり細くする深呼吸なら難しいことはない。怒りや不安に襲われそうになったら、深呼吸を数回するのが効果的である。就寝時の丹田呼吸法は安眠をもたらし、起床時の深呼吸は気分爽快な朝を迎えさせてくれる。散歩しながらでも、電車の中でつり革にぶら下がりながらでも、呼吸を意識して整えることは可能である。お金もかからないし、手軽にどこでも何時でもできる健康法として試す価値はありそうだ。